大手町の紀伊国屋

他業種の仕事について書かれた本を詠むのは面白い。自分の仕事との違いに驚いたり、比較してみたり。この本は、いわゆるクリエータといわれる人たちを取材し、彼らの仕事に対する考え方や、取り組み方について書いた本だ。取材対象ゆえか、あるいは筆者の趣味なのか、低価格の工業製品(職人仕事がされていないモノ)への嫌悪がむき出しになっているのが、やや難点か。

こんなものでいいでしょ

裏がベニアのカラーボックスや、広告ばかりの水増しされた雑誌、安い作りの建て売り住宅のようなモノは、人を軽視した「こんなものでいいでしょ」というメッセージを発している。そのようなモノに囲まれて生活するということは、自分の存在を否定されながら生きているということに他ならない。
「こんなものでいいでしょ」という気持ちで作られたソフトウェアは、誰に対してメッセージを発しているのだろうか。使う人? そのコードを読むプログラマ? 品質や使い心地の悪いソフトウェアは使う人を軽視している。しかし、コードは汚いが品質や使い勝手の良いソフトウェアはどうなんだろうか? 誰かを軽視しているのか? 汚いコードを読むと、プログラムに対する愛情のなさを感じて、さびしい気持ちにはなる。

つくる力は観察にしたがう

あるモノを表現する言葉の多さは、そのモノに対する感受性の鋭さを表しているといってよい。観察できない、表現できない、つまり差異を認識できないものを、どうやって表現できるというのか。
ソフトウェアでいうと、優れたプログラマと新米プログラマ、あるいはその分野に精通しているプログラマとそうではないプログラマでは、同じコードを読んだ時にそこから感じとることのできるものの量や質が違うということか。たしかに、コードが明示的に語っていない非機能要件なんかはそうかもしれない。

デフォルトのフォントサイズ

色見本帳、音階、アプリケーションのデフォルトフォントサイズのようなものは、便利だけど、それらが表現の幅を狭めていないか?
特定のプログラミング言語や開発方法論などによって思考方法が規定されていないか?言語ウィルス。

特殊な工芸

時間とお金が交換されるようになってから、時間のかかる仕事は効率化を迫られてきた。効率化できない仕事は特殊な工芸だとみなされた。しかし、時間をかけることによって、はじめてできる仕事というものは存在する。すくなくとも、建築や工芸品においては、時間をかけた、かけないの差はすぐにわかる。
ソフトウェアはどうなんだろうか。職人によって作られたソフトウェアとそうでないソフトウェアの違いは、単なるユーザが見てもわかるものなのだろうか。